「歓喜の歌」日本映画界を元気にする秘訣教えます!

12月例会の『歓喜の歌』のシネマ&トーク

李鳳宇(り ぼんう)さん シネマ&トーク

−京都出身の映画人が語る映画への思い−

 

 映画製作配給会社「シネカノン」社長。1960年京都市生まれ。父は日本植民地時代の韓国・済州島から来日した在日朝鮮人1世。母は2世。民族学校時代はサッカーに熱中した。朝鮮大学校外国語学部フランス語学科卒。卒業後、パリに留学。パリでは映画三昧の日々を送り、帰国後の89年、シネカノンを設立した。初めて買い付けた映画はポーランド映画。作家、梁石日の原作を映画化した93年の「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)がヒットし内外で57の映画賞を受賞、映画プロデューサーとして注目される。

 94年、韓国映画「風の丘を越えて 西便制」の配給権を得るためにソウルに行き、その後、国籍を朝鮮から韓国に変える。99年にはNHKのど自慢を感動ストーリーに編み変えた映画「のど自慢」を公開。2000年には韓国アクション映画「シュリ」を日本公開し大ヒット。韓国映画としては異例の600万人の観客を動員。韓流ブームの流れを作った。自社の映画館経営にも乗り出し、韓国のソウルに日本映画専門映画館をオープンさせた。05年公開の映画「パッチギ!」では民族学校時代の自身の体験談を随所に織り交ぜている。

 

 

シネカノンがこだわって作る映画のテーマ「人はもう一度やりなおせる」と「うれし泣き」

  歓喜の歌」は、僕が脚本も書いて編集もしてますのでけっこう好きな映画なんですけど、最後の小林薫さんの涙流しながら「心入れかえます」って言うセリフが大好きなんです。小林薫さんは、ほんとにしょうもない男うまいですよね。薫さんも京都のご出身で、高野に実家があるそうです。あのセリフも薫さんがこうしたたらいいんじゃないかってことでああなりました。シネ力ノンが作る映画には共通した約束事みたいなのがあって、僕の主義でもあるんですが「人はもう一度やりなおせる」ってことが大きな意味ではテーマです。「やり直し」とか「うれし泣き」ってことにすごくこだわっています。
 今の日本映画で業界の人が問題にすることは「どれだけ儲かったか」ともうひとつは「どれだけ泣けた」かったということです。儲かって泣けたら一番いいんですが、儲からなくて泣けなかったら、最悪っていわれるんです。でも泣くっていうのは、犬が死んでも泣くんですよね。難病の話ってのはもっと泣けます。泣ける映画ってのは、ある意味、作るの簡単なんです。
 でも世界的に非常に難しいのは笑う映画なんですね。涙というのは全世界共通なんですけど、笑いというのはかなり国によって違います。僕ら映画のプロが常に目指すのは、よくできたコメディー。TVでやっている人の失敗をあげつらって笑うようなドタバタではなくて、計算されたコメディーです。
 一生懸命やってることがおかしくて、笑いの中に涙があるようなもの。ほんとに笑いってのは難しいものです。「うれし泣き」「笑い泣き」ってことにこだわっていきたいと思っています。

 

俳優は声がポイント

 僕は売れてる本やTVのドラマからは、自分が作る映画ではないという気がしていました。この『歓喜の歌』は立川志の輔の落語が原作です。志の輔師匠の人情話ってのは素晴らしくて「踊るファックス」「メルシーひな祭り」などお薦めです。落語では、ダブルブッキングのドタバタ劇を支配人が右往左往するというところがありません。映画ではいかに安田成美さんと由紀さおりさんのコーラスグループが仲良くひとつのステージに立つかに苦戦しました。非常に無理な設定をしていますが、まぁ、本来ならちょっと無理でしょうね。これぐらい実力差があって格差社会の象徴みたいなグループですから…。由紀さおりさんは歌ももちろんお上手ですが、声が素晴らしい。僕は俳優さんとは仕事を一緒にする基準に声を大事にしています。顔はあきちゃうんですよね。美人も三日で飽きるっていいますから…。僕は吉永小百合さんより由紀さおりさんがいいですね。
 ケン・ローチ監督が俳優を選ぶ時こんなエピソードがあります。オーディションを隣の部屋で声だけ聞いている。その人の履歴も見ない。ケン・ローチは声だけ聞いてその人の階級、仕事、出身地、いろんなことがわかるらしいです。そして最後の最後で会う。今回、ママさんコーラスグループの人たちも全員ある程度歌える人、声で選んでいます。この中で突然歌い出す素晴らしい声の持ち主がいますが、あの人はミュージカルの俳優で『ミス・サイゴン』とかに出ているんですよ。あの場面あまりに声が素晴らしいんで、一瞬緊張が走りますよね。
 あそこが唯一、由紀さんたちのグループが一緒にやってみようかと思う説得力になっているんじゃないかと思います。

映画はマジック

 撮影秘話として、大晦日除夜の鐘が鳴って雪が降っていているシーン。何度も何度も撮り直ししたんですが、実はあれは夜ではなく昼、埼玉県熊谷市で真夏に撮っています。その日は41.3度という史上最高の気温でして、薫さんはヘトヘトになってました。三畳くらいの狭いお店の場面、スタッフ8人が入りカメラを構え、クーラーは音がするので切ると、中の温度は55度でした。薫さんも意識もうろうとし始めて「え、え、何だっけ」で台詞が出てこない。薫さんブレザーの中は半袖で、背中にはアイスノン張っています。下は短パンでやっていることもありました。そういう意味で、ホントに映画ってマジックですね。

自分自身のルーツを映画にする

 小さな嘘と大きな嘘のこの加減をやっているのが映画かなと思います。嘘を重ねて、皆さんにあったかい気分になってもらえればいいかなと思っています。
この例会でも紹介いただいた『パッチギ!』という映画は、この京都の街で撮影しました。
 この映画では、自分自身についてのこだわりを持っていました。井筒監督とは『のど自慢』『ゲロッパ!』と長年ずっとやってきながら、話し合ってきたのは、昭和ってどういう時代だったんだろう、自分たちはどう生きてきたのかな、と自分かちのルーツの話がしたいということでした。
 僕は渋谷で、「チェ」というバーをやっています。チェ・ゲバラの「チェ」です。いろんな映画監督や俳優が来ます。そこで僕が「監督!」って呼びかけるとカウンターの4〜5人の監督が振り向きます。監督って人は選ばれた人だと思いますね…。そういうバーで、夜な夜な話し合ってきたことが自分たちのルーツのことでした。

筋ジストロフィー症という病気で亡くなった兄

 井筒監督が17歳の頃の話が主人公の康介で、朝鮮高校に通い朝鮮に帰国するかどうか悩んでいる少年に自分自身を投影した部分もあります。井筒さんと自分自身の二つの育春がひとつになった話です。僕は京都の東九条に生まれ育ち、17歳までそこにいました。僕には年の離れた兄がいまして、筋ジストロフィー症という病気で亡くなりました。
 この筋ジストロフィー症は進行性が強い残酷な病気で、医者からはI8、9で亡くなるでしょうと宣告されていました。ただうちの母は頑なに医者の言うことを信じない人で「必ず治る」と思い込む人でした。エキセントリックな部分もあり、非常に気丈な人でした。
 だから僕らの家族は、兄の病院を変わるために、30回以上全国を転々と引っ越ししているんです。京都に引っ越した理由のひとつは府立医大にいい先生がいると間いたからです。うちの父は本当に働き者でした。母が強引に引っ越した後に、荷物を持って合流する。父は洗濯屋でして、新しい町でアイロンひとつを持って商売していました。母はおせんべいを焼いて売って、家計を肋けていました。
 兄は京都で18になり、母は兄を救おうと熱心にいろんなことをしました。お札とか貼って、兄の足の裏にはいつも文宇が書いてあります。兄の部屋には漢方薬の匂いがしていました。二間しかない狭い家で、兄が大きなベッドを陣取っていたので、僕は押し入れで寝ていました。
 思い起こすと、5、6歳の育ち盛りだった僕は、足の悪い兄がうっとおしくて、僕がうるさくすると兄はオモニ、オモニと呼んで、僕は外に追い出されるんですね。日が暮れる前に家に帰ると怒られました。それほど、僕はうるさかったんでしょうね。申し訳ないなぁと思うんですが、僕自身にはあまりいい思い出はないんです。
 医者が宣告した通り、18で兄は亡くなるんですけど、二日か三日代わる代わる皆でベッドを取りまいて息をひきとるまでを看取るんです。僕は5歳半くらいで確かな記憶はないんですが、明確に残っていることは、皆が「あんちゃーん」と大きな声をあげて泣いてたこと。そして葬式で棺桶が家に入らなかったということ、それはとてもショックで、父はそれがくやしくて斧を持ち出し、家の玄関を叩き壊して棺桶を中に入れました。その光景だけはくっきり覚えていました。あと、兄になついていた黒いピューっていうネコがいましたが、兄が亡くなるといなくなっていました。

イムジン河への思い

 そういった自分のルーツのことの話をするなら、どうしても再現したいと、監督と相談して『パッチギ!』の中で後輩が亡くなった葬儀の場面にそんな思い入れを込めて描きました。
 井筒さん自身も思い入れの強い映画です。「イムジン河」と言う歌に対する思い入れです。1968年の2月にこの歌が発売中止になったというエピソード、若かった井筒監督が、当時なんて理不尽な事件だろう強いインパクトを受けた。そういった思いの丈を皆で持ち寄って1本の映画にぶつけて作ったのが、この『パッチギ!』でした。

韓国映画の情熱を私たちの手で表現できないか

 『パッチギ!』を作るもうひとつの経緯として、数年前から僕は韓国映画を紹介してきましたが、『シュリ』とか『JSA』を配給していく中で、韓国映画を我ながら歯がゆい思いがありました。
 日本映画は何故これができないか、韓国映画の特っているような情熱を表現できないか、そういう思いが沸々とあって『パッチギ!』につながっていると思います。
 僕が韓国映画3本あげるとすれば『風の丘を越えて』『シュリ』、そしてもう1本是非皆さんにお薦めしたいのは『オアシス』という映画です。
 脳性麻痺‥の女性と知恵遅れの男性のラブストーリーで、見ていてつらいシーンもたくさんあるんですが、これほどピュアが強いラブストーリーはないなと思います。自分がいろんな映画を作ってきて、これからも行くであろう映画の指標ともしている映画です。
 しばらく、韓国映画はご無沙汰しているんですが、最近、配給権を得た韓国映画があります。来年の3月に『クロッシング 祈りの大地』という映画を公開します。久々に絶対に自分の手でやりたいと思って決めた映画です。是非ご覧下さい。

シネカノンというひとつの組、同じ仲間と共に映画を撮っていく歓び

 『フラガール』は自分たちが予想した以上に評価をいただいた映画です。うれしかったのは自分がこだわってきた表現ができたということと、ずっと長くやってきたスタッフたちと成功を分かち合うことができたことです。
 皆さんはあまりおわかりにならないと思いますが、実は『パッチギ!』と『フラガール』はほとんど同じ人たちが作っています。監督だけ違っていて、助監督も脚本家も音声も美術も細部にわたるまでほとんど同じスタッフでやっています。『歓喜の歌』も大部分のスタッフが同じです。昔も監督を頂点として黒澤組とか山田組とかが有名ですけど、映画を作る仲間、僕らはシネカノンという会社でひとつの組だと思ってやっています。一緒にやってきた仲間と撮れたことがうれしいことです。

『フラガール』変わらざるを得ないもの、変わらないもの

 『フラガール』でもこだわったことかあります。早苗という女の子が夕張の炭鉱に行ってしまう場面。解雇されたお父さんが酔っ払って家に帰ってくると、レイをまとって踊っている早苗の姿を見てお父さんはカッときて、早苗を殴って髪を切ってしまう。昔の封建的な父親の典型みたいな人です。そこにマドカ先生が駆けつける。その次のシーンでは、怒ったマドカ先生が男湯の銭湯に飛び込んで格闘している。これは僕が書いたシーンですけど、ちょっとやりすぎだって思われるかもしれませんが、僕はこういったところがどうしても表現したかった。町を去る早苗という少女、その取り巻く環境、ここまで描かないと炭鉱の厳しさ、生活の厳しさが表現できないと思っていました。僕の小さい頃は、僕が育った京部の朝鮮人の部落には、日雇い労働者で三日雨が降ったら飢えてしまうような家族がいっぱいいました。
 もうひとつ炭鉱の町ですから、炭鉱夫、働く人たちのプライドも表現したかった。これがないとただのおねえちゃんのダンスムービーになってしまう。女性がたくさん集まって何か一生懸命にやる映画では『スウィングガールズ』を観たのですが、僕はあまり感心しなかった。ただ何かをやるっていうモチベーションがあまりわからなかった。炭鉱の町だからダンスをやるっていう意昧があるんじゃないかと思いました。
 豊川悦史のお兄ちゃんは炭鉱夫の象徴みたいな人です。借金取りがマドカ先生のところにやって来るのを橋の上で仁王立ちしている豊川悦史。大乱闘の末、借金取りを追い返していく。
 はじめに僕が書いた部分は橋の上で大の宇になって倒れている豊川悦史、遠くに見えるボタ山を涙して見ている傷だらけの顔でした。それは映画にないんですが、そういった彼らのこだわりやプライドを描きたかった。
 消えていく町、石炭から石油、原子力へと、エネルギー産業が変わっていく、すると人の生活も変わっていく、ただ変わらないものもあるだろうって意地みたいなことは大事じゃないか、そのプライドを見せたかったことです。

もう一人のフラガール、いやフラボーイ?


 完成された『フラガール』にはないシーンなのですが、もうひとつこだわったところがあります。
  『フラガール』には女の子のダンサーが16人いるんですが、本来、黒一点で男がいました。ファイヤーダンスという松明に火を灯してぐるぐる回す踊りです。実際にハワイアンセンターにはキモ青木さんというファイヤーダンスの方がいらっしゃって、この役を書いてみました。ある俳優にこのファイヤーダンスの役を与えるので練習をしなさいと言って頼みました。この俳優、練習に練習を重ねて、体のあちこちに本当に火傷をいっぱい作りました。そして撮影の時になって、李監督がこの人の裸を見て「いやこれちょっと、火傷が多すぎて使いものになりませんよ、社長」って言うんです。で、「申し訳ないけど」と言ってこの役なくなっちゃいました。僕はこの俳優に頭を下げましたけど、彼は夜通しグチを言ってました。ただ来年の9月『フラガール・パート2』をやります。ここで、この俳優必ず出てきます。
 どういう話になるかは別にして、この人だけは出てきます。お約束します。その時にこいつだったのか、苦労したなぁと思ってやって下さい。

日本アカデミー賞に輝いた『フラガール』映国界の古くて重い扉を開きたい。


 『フラガール』は日本アカデミー賞をいただきました。本来インディペンデントの映画会社が、絶対もらってはいけない賞、東宝・松竹・東映の人たちだけがもらう賞です。これまでもアカデミー賞にはたまに呼ばれて、5本のノミネートには入ることはありました。
 今回も当然もらえないと思ってただ座っていました。すると吉永小百合さんが「グランプリは『フラガール』です。」とおっしゃったのでビックリしました。そして壇上で、何かひと言をというので、せっかくだから何か言ってやろうと思いました。その年は417本という戦後、邦画の公開本数が最も多い年でした。
  「417本の中で、原作もなく、TV局もなく、大手配給でもないインディペンデントの映画が頂点に輝いたことに本当に感謝してます。こういう映画を選んでいただいたアカデミー会員の人たちにも感謝します。やっと古くて重い扉が開いたような気がします」と言ったんです。そうしますと、前方にいらっしゃる大手映画配給会社の方々が、キツイまなざしで僕のこと睨んでらっしゃいました。ま、いいかと思って、夜、家に帰りTVで授賞式の放送を見ることにしました。「なかなかいいスピーチしたな、どういう風に映っているかな」と思ってチェックしたら、吉永小百合さんが 「グランプリは『フラガール』です。さようなら」って言って終わっちゃったんです。あららと、僕は一切出てこなかった。やっぱり古くて重い扉はなかなか開かないですね。古くて重い扉を開くのは、僕たちじゃなくて皆さん、観客が観たいものを作る、観客が支持したものが評価される。そういったことが本来の形です。皆さんのお力で、古くて重い扉をちょっとずつ開いていただければ幸いです。どうもありがとうございました。(おわり)

 


前
2009年6月比嘉世津子さん『今夜、列車は走る』ひとりで配給その熱意とバイタリティー
カテゴリートップ
イベント情報
次
2008年6月例会■岡 真理さん講演 「パラダイス・ナウ」で考えるパレスチナの現在