『ディア・ピョンヤン』梁英姫 (ヤン・ヨンヒ)シネマ&トーク

 世界中がこの父に、泣いて笑った!北朝鮮に忠誠を誓う父と、<在日>2世の娘が織りなす10年の軌跡。
 約3万人の在日コリアンが暮らす、大阪市生野区。人生のすべてを“祖国”に捧げる両親のもとで、私(ヤン・ヨンヒ)は育った。30数年前、朝鮮総連幹部の父は、3人の兄を帰国事業で北朝鮮に送り出した。しかし月日が経ち祖国の窮状を知った両親は、息子たちにせっせと仕送りを始める。家ではステテコ姿でくつろぎ、「オモニ(母ちゃん)最高!」と叫ぶ陽気な父。私は父を愛しているが、祖国に絶対的な忠誠を捧げ続ける一面を、どうしても理解することができない。

 京都映サの2007年11月例会『ディア・ピョンヤン』は、梁英姫 (ヤン・ヨンヒ)監督を招いてのシネマ&トークで大いに盛り上がりました。監督の流暢な大阪弁による語り口によって明かされる、映画で描ききれなかったことどもが私たちを大いに刺激し、それは会員の皆さんの感想に現れました。

 当日の臨場感が出るかどうかは分かりませんが、梁英姫 (ヤン・ヨンヒ)監督の紙上ライブをここに再現してみました。

世界中どこにでもある話父と娘と家族の話


 この映画は決して帰国事業のことや、ピョンヤンのことを描いているわけではなく、プライベートな親と子の関係を、在日だけということでもなく、世界中どこにでもある話として描いています。よく映画祭なんかで質問を受けるんですけど、まずご報告がてら申し上げます。父は今もあんな感じで元気です。でも脳梗塞で年齢もいってますので寝たきりですが、よく食べますし、よく話します。「かあちゃん大好きや」とか言ってますので、病院でも名物くらい仲のいい夫婦です。兄たちは未だに日本に来ることはできませんが、手紙とか、たまにピョンヤンから電話があり、父がどういう状態か報告しています。北朝鮮では健康な人たちさえもどうやって生きるか精一杯な状態ですから、「介護」という考え方がほとんどなくて、病院でどうやって介護して治療しているかを説明するのも大変です。
 よくあなたの両親は、何故あそこまで考え方を変えずに生きていけるのか、志を貫けるのか、という質問も受けます。時代が変わると状況が変わり、現実が変わると人間の考え方も変わるということはよくあることです。私もうちの両親も、現実を知らないわけではないはずなのに、何故ここまで主席様、将軍様についてくと言えるのかずっと疑問でした。答えはまだはっきりわからなくて、「お父ちゃんを何がそうさせたのか」ってことは娘として私が生きている限り、考え続けていくことじゃないかと思うんです。

父を撮るキッカケとおすぎさん


 30才になって、ビデオカメラ持ちいろんなアジアの国に行って、ニュース映像を作る仕事を始めました。そこで様々な人にインタビューをしました。インタビューは相手に理由を聞くのが仕事なんです。「あなたはどうして娘を売るんですか?」とか「どうしてこの女の子に売春をさせるのか」とか聞くわけです。ふと考えると自分にとって一番大きな疑問符なのは、私が一番質問しなければならないのは目の前にいるこのパンダちゃんみたいなこのおっちゃんやって気づいて、家族のドキュメンタリーを作ってみたいと思いました。最初は父ではなく、兄たちの映画を作る気でいました。でもそれはリスキーすぎる、実生活の人たちに迷惑をかけてはいけないというのでやめました。私がとやかく言われるのはいいんですが、こんな娘を持ったがために、自分たちの過去や私生活を公に晒される家族はたまったもんじゃないですね。私の映画が理由でうちの兄貴たちが収容所に送られたり、ピョンヤン追放になったりすると困る。実はずっとそれで悩んでいました。悩みながらとりあえず撮りながら考えようとしていました。ピョンヤンで撮る時にはインタビューはしないと決めていました。
 日本にいる私ですら北に対して全部言えないことが多いのに、ピョンヤンにいる彼らはもっと言えないんです。「ホントに将軍様を尊敬してますか?」って聞いて、ホントに尊敬している人もいるかもしれないけど、尊敬していない人は「尊敬してません」と言えるわけないじゃないのに、それをわかっていて聞くなんておかしいですよね。彼らの生活を絵のように景色のように撮り、アボジには色んなことを聞いてみようと決めていました。
 阪神大震災の直後、ラジオ関西、今のAM神戸、須磨海岸のそばにあったスタジオが、半壊しまして、小さなラジオ局で、私はおすぎさんとラジオの番組をしていました。私は無名でアルバイトぐらいのものでしたが、おすぎさんはホントにボランティアとしてやっていました。はじめに会った時、名刺を差し上げたら、私の名刺には「梁英姫」ってあるのを見て、おすぎさんは「あんた在日の人?いやぁこうしてくれると助かるのよね〜」って言ったのが第一声でした。芸能界にはたくさん在日が多いのに隠している人が多いから、その後「大阪生まれなんだー」ってなって家族の話をしていると、「スゴい家ねぇ、皆ピョンヤンにいるの〜」っていろんな話をして、その時、家族でドキュメンタリーを作り始めたいという時期だったんですね。映画の完成まで見守ってくれた。とにかく諦めるな!撮れるだけ撮っておいて後で考えればいい。映画ができた時も、一番はじめに完成版のテープを渡したのもおすぎさんで、「よかったわよ」って言ってくれました。私にとっては姉のような、母のような存在です。
 30代でニューヨークへ行きたいって言った時にはさすがにうちの父も怒って、「息子がピョンヤンで娘がニューヨークとはうちの家はどないなっとんねん!」こんな革命的な家から、こんな奔放な娘ができるんだってよく嘆いてましたが…。「あんなアメリカ帝国主義へ行って学ぶことがあるのか!」って言うと、私は「アボジ、これは相談やなくて報告やから。1年だけ行かせて」。すると「知らん。お前は結局反対しても行くんやろうから知らん。金は送らん!」って言うので「アボジ金ないやんか(笑)」って言ってました。

描けなかった四・三事件


 ひとつ映画の中で説明しなかった部分があります。それは済州島で1948年4月3日に四・三事件というとても悲惨な事件がありました。済州島は大阪府くらいの大きさで、そこで同族同志により、3万人が大虐殺されました。小さな朝鮮戦争が起こったような事件です。45年に終戦で、50年に朝鮮戦争が始まります。48年はその中間でとても南北が混乱していて、国がひとつになれるのか、アメリカもソ連も入ってきて永久的に分かれてしまうのかで、すごく激動していた時期でした。48年、8月に先に南の大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国の政府が樹立されます。それより先の4月に、南半分で単独選挙が行われようとします。それに対し反対する動きが、韓国社会、特に済州島で強く起きます。というのは半分で単独選挙を行うと、本当に国が半分に分かれてしまう。選挙は南北ひとつでして、ひとつの政府を持ちたい。やっと植民地が終わって、ひとつの国が独立できる夢を描いていた朝鮮人にとっては、また国が半分に分かれるというのは、悲惨な過去から次のまた悲惨な未来に行くといったことですごく強く反対をしたんです。
 済州島というのは、本土とは言葉も違い、独自の文化もあります。差別も受けてきて、反骨精神の強い人たちが多い土地です。それを抑えるために韓国政府は軍や人を送るんですが、北からのスパイや共産軍が来て人を殺しているんだといったいろんなデマを流します。このことは長い間韓国社会では、経験者、目撃者、身内を失った人たちも一切口にしてはいけないタブーでした。「光州事件」よりもきついタブーでした。それが最近やっとこの四・三事件に、政府が調査団を作って真相究明を始めているし、毎年4月3日には韓国の大統領が済州島まで行って追悼式典で島の方々に謝罪をしています。うちの両親も南の済州島の出身で、この四・三事件で、身内をたくさん殺されていて、もう韓国政府は信じられない、という思いが刻まれています。この四・三事件についての説明を入れると父がどうして「北」を選んで、あそこまで思いを入れるのかがもう少しわかるとは思ったのですが、教育番組や、3時間以上の映画にはしたくないので、今後の宿題ということでやめました。

四・三事件と母


 それから娘である私に最近まで言わなかったんですが、母は血で染まった歴史、この四・三事件を目撃した人でした。近しい親戚や友人を失っていますし、死体の山や、そこから流れる川が血の川になっていた様を見ています。母は日本生まれだし、日本での差別も経験していますが、朝鮮戦争の時も日本にいましたから、朝鮮半島の惨事を目撃したはずがないって思っていたんです。…が、母は大阪の空襲の時の疎開先として済州島に行くんです。そこで日本では貧しいし差別もあるしで、故郷であるここで暮らそうかって思い始めていたんですが、そのうち四・三事件に巻き込まれそうになって、おばあちゃんがこの島にいたら殺されるというので密航船で日本に戻ってきました。大阪の生野区にはこの四・三事件から逃れてきた済州島の出身者が多くいます。人が殺しあうことは、人間関係や歴史の修復に時間もかかるしエネルギーもいる。これが、身内同志で殺しあうというのは、大変なことです。それが南と北でも起こったし、済州島でも起こった。朝鮮戦争や、ドイツやユダヤ人のことでもそうですが、自分の親や祖父母や友人が殺されたりとか、自分が直接何かされたりすると、人間はそれに対して距離を置いて見るようになるのに時間がかかる。あるいはそれがきっかけで何か強い意志や目的を持ってしまう。
 父がたまに私の意見に「そやなヨンヒもええこと言うな」と同調するようなことを言うと、母は「そんなことない、ピョンヤンはこれからも大丈夫」みたいなことをバシッと言ったりします。冗談でうちの兄たちと「お前、俺らの家族でホンマのアカは誰か知っとるか」「アボジ絶対ちゃう。ありゃニセモノや(笑)」と言ったりしてます。前に出る人よりその人を支える人の方は、褒められるわけでもありません。この人の記憶のベースに焼き付いている画っていうのが、多分私には想像もできないんだろうなと思います。50年代、60年代の政治闘争はスゴいものだったろうな。母は、朝鮮人のベーシックな人権獲得のための『政治闘争や思想闘争』+『血の川、死体の山、焼かれる山』を見て、身内を殺された人だと再認識をします。母は、今戦争が起こっても銃を持って走るのは母だろうってうちの兄弟では言ってるくらいで、根性のすわった大阪の女って感じです。

一人ひとりの人生を覗きながら、朝鮮半島が見える映画にしたい


 アボジが生まれたのは1927年ですが、アボジが生きた30年代、40年代、50年代と自分が生きてなかった昔のことを改めて勉強するわけです。大阪で何があったか、済州島で何があったか、総連で、民団で、世界で何が起こっていたか。ある人の人生を理解するために読むと、白黒だった歴史の本が、すごくカラフルに、飛び出す絵本のように見えてくるのです。歴史の勉強って楽しくてスリリング、もちろん、悲惨な辛い過去がある中でも、強く生きてきた人たちの姿が浮かんできて、「一世の人たちは改めてすごい時代を生きてきたんだな、伊達に年をとっているわけじゃないんだなあ」と思いました。人を通して知る歴史って、とても豊かなものであり、色っぽくもあり、楽しいんだと実感し、そういう映画を作りたいと思いました。ひとつの事件や問題に対して説明をする映画ではなくて、一人ひとりの人生を覗きながら、もう少し大きな画が見える、在日や朝鮮半島が見える映画にしたいと思いました。

 こうゆう歴史を背負った人たちにとって、故郷である韓国が自分たちを無視していた時期に、金日成の演説は神の声だったかもしれない。父も母も貧しかったこともあって、マルクス・レーニン主義とか、主体思想とか言っても、理論的じゃなく、すごく感情的なんです。金日成主席だからついていく、みたいな、だから私にとっては説得力がないですよ。一番自分たちが苦しくて惨めな時に手を差し伸べてくれた親分を何があっても裏切れない、義理と人情みたいなものを感じます。日本の警察が朝鮮学校に入ってくるのを人間でバリケードを組んで学校を守ろうとしていた時期に、朝鮮学校を建てるように、莫大なお金が北朝鮮から送ってきたのも事実で、当時として北朝鮮を信じるなって言うことは、無理なことじゃないかと思います。北朝鮮の内部の事情は見えなかったけど、北朝鮮に対する期待が大きかったし、期待がなければもたなかったのだろうなと思います。兄たちが帰国する時、家にパッチギ仲間が集まって盛大にお別れパーティしました。小さかった私が覚えている、その時に飛び交っていた言葉は「先に行くぞ」「頑張れよ」「すぐに統一なるわな」とかでした。当時3〜5年経てば統一されるだろうし、北と南で行き来が出来、日本との国交も樹立されるだろうって思っていました。今考えると安易と言えば安易だけど、ホントにその望みを持って皆が生き延びたって思います。

拉致問題と父の本音


 父は、10年間のうちで最初の3年間はカメラを向けてもウンともスンとも言ってくれなかったです。映画に使った画は10年間の撮影の中で後半に撮った画の方が多いです。
 これは編集でなくて偶然なんですが、父が本音をポロっと言うシーンがあります。朝鮮総連の関係者は「あのシーンだけなかったら、この映画はいい映画なんだけどな」ってよく言われます(笑)。でも、その後食卓で前言を取り消すように「俺らは将軍様に忠誠を尽くす。」ってすごく強調して言うので、「私は(それに)はいってんの?」って聞いたら「お前は別枠だ」と言う。その後「韓国籍に変えればいいだろう」を認めてくれる。ここまでが実は同じ日に撮れたんですね。
 その日は何となくピーンと張り詰めた空気が私と父の間にありました。テレビで拉致問題のニュースをしていて、話が拉致問題になると、私もカチーンときまして、拉致のことがあるのにそれでも父が共和国、北の立場を支持するようなことを言うので、「お父ちゃん、自分の娘拉致されたらどないするのんな?」って私が言っちゃったんです。そしたらシーンとなって「ほんまやな」って「あれは俺もショックだった」って言うんです。私は娘として、昔から一度は聞きたかったけど聞けなかった質問が「お兄ちゃんたちを送って、今後悔してないの?」ってことだったんです。今しか聞けないと思って、私も精いっぱいテンパってて、「3人行かして後悔してる?」って、つっけんどんな聞き方しました。そしたら「今さら何言うてんねん」とか「いらん事聞くな」とか、黙っちゃうとか、席を立っちゃうとか、でその日は終わるんだろうと思ったんですが、それが「兄たちを送らなくてもよかったとも思う…あの時は北を支持する熱気があったが、まさかここまで来るとは思わんかった」と本音をポロっと言い出したので、ホントにカメラを落としそうなくらいびっくりしました。その後韓国籍を認めるようなことになり、ソウルに嫁に行ってもいいっていうことにもなり、その日はどうしちゃったんだろうと思いました。
 実はその日の会話が、父の元気な時の最後の会話なんですよ。アボジは今まで言わなかったことをこんなに話してくれるのかなとなんか変だなと胸騒ぎもありましたが、あぁこれで映画になるかもな、とも思っていました。次の朝、私は東京に戻るんですけど、三週間後に父が倒れたって電話が来ました。あの時、ホントにこれからやっと話ができると思ったのですが、「俺はこれで精一杯しゃべった。もう勘弁してくれ」ということだったのかなとも思いました。最近母が「アボジは頑固一徹で生きてきたけど、最後の最後の仕事で、あんたに映画作らせたんかもしらんなぁ、ちょっといらんことも言うたけど…」ってポロッと言うんです。

日本語で書かれた「フレーフレーヨンヒ!」


 この10年間この映画を出すことによって、兄たちに迷惑がかかるのではないかとずっと心配で、家族親戚一同から追いかけられる同じ夢をよく見ました。それでも何とか傷つけないで表現の方法はないものかと、諦められずにいました。露骨に北朝鮮を批判するのが目的でもないですし、北朝鮮の全体を見せるのが目的でもないけれども、かといって賛美もしたくない。描きたかったのはうちの家族であり、うちの家族を描くためには触れないわけにいかない。10年のうち5年目くらいに父を主役にしようと決めました。
 そこでピョンヤンにいる兄貴たちに言っておかなければならないと思い、ある時ピョンヤンに行って話してみました。私は心の中では兄貴は「やめてくれ、俺らの身にもなってくれ!」と言われると思ってドキドキしていました。今、ドキュメンタリーというのは誰でもカメラを持って撮れるし、世界にはいろんな映画祭もある。アボジを主役にしたいけど、お兄ちゃんたちのことも出したい、顔も出るし、昔の写真も使うし、名前も出したい、でも顔にモザイクはしたくない。日本のテレビでこんな北朝鮮のニュースが流れているんだけど、その中で帰国者の中で、つらい運命を辿った方もいるし、行方不明者もいる。うちの兄貴たちの生活はめぐまれた方ですが、北朝鮮の人たちの生活にも幅がある。今の日本には、いろんなものを見る眼が欠けているし、北朝鮮に対する情報が偏っている。日本からの支援あってのことだけど、普通に生きている人たちの生活や、停電の中でピアノの練習をしている甥っ子の姿を見せたい、と兄に説明しました。そうしたら兄は「そこまでお前が思うんやったらやってみぃ」と言ってくれました。私は「保証はないけど、お兄ちゃんたちに迷惑かかららないよう最大限頑張る」「もし、何かあったらすぐに如何なる手段を使っても連絡をくれ」と言いました。
 2005年9月に映画が完成して、はじめに釜山と山形の映画祭で上映されることになりました。釜山で上映されると、韓国の新聞にも載るし、そこにはいろんな種類の北の人たちもいる。絶対北に報告が行くだろうと思うのでした。そして釜山と山形の後、世界のいろんな大きな映画祭を回ることになりました。その度に映画をいろんな所で観て頂けるのはうれしいんですが、何か嫌な知らせが来ないだろうかといつもドキドキしていました。けど、口にすると母を心配させるので何も言わなかった。母も母で何もそのことを口にしない。今年の正月に兄たちから年賀状が来ました。「ヨンヒの映画のことは日本から来る人たちから、いろんな所で上映されていて、評価されているのを聞いてうれしい。僕たちのことは一切迷惑かかっていないので、心配しないで自分の進みたい道を進めばいい」と朝鮮語で、最後に「フレーフレーヨンヒ」と日本語で書かれてありました。ホントに、その年賀状を読んで手が震えるくらいホッとして、その日から私と母はぐっすりと眠れるようになったんです。

 


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