『チルソクの夏』実現に賭けた思い

 長年、助監督をやってきたけど、自分の原風景のある下関の街を撮って映画監督をやりたいと思っていた。

 あのヒットメーカーの佐々部清監督が京都にやってきた。監督の思いがいっぱい詰まった『チルソクの夏』を思いっきり語っていただきました。この「シネマ&トーク」で京都映画サークルに多くの佐々部ファンができました。

<助監督時代からあたためてきた企画>

  

 映画を撮るのはうまいんですけど、しゃべるのは下手です(笑)。舞台の下関は私の生まれ故郷です。高校の頃は映画大好きで早く下関を出て東京で映画をたくさん観たいと思っていました。12年くらい前に親父を亡くしまして、葬式に下関に戻った時、住んでいたあの長屋や商店街や石段とか30年前の風景がそのまま残っていて、それをいつか映画に撮りたいなと思っていたのがきっかけでした。
43歳まで助監督やっておりまして、35歳のその頃、TVドラマ『北の国から』の助監督をやりながら、この『チルソクの夏』の脚本を書いて、これを撮らせてくれとあちこちに言っていました。助監督としては優秀ですが(笑)、監督としての実績のない僕にこの映画を撮らせてくれるところはなかった。助監督の仕事としてのロケハンやっていましたから、軒下とか石段とか古い日本家屋とか懐かしい日本の風景を選んでしまうんです。きっと僕にとってのそんな原風景が下関にあった。この原風景を撮らずして映画監督になりえるものかと思っていました。好きで長く助監督やっていたわけではないんですが、それまでにもTVドラマとかVシネマの監督をやらないかとか何回か言われたんですが、なかなか分切れなかった。映画を夢見て映画監督になろうと思っていたので『チルソクの夏』でなら監督やりたいと思っていました。『鉄道員』『ホタル』で助監督やった御褒美で『陽はまた昇る』の脚本をまかされているうちに監督をさせてもらうことになりました。その『陽はまた昇る』を観てくれた人たちからやっと『チルソク』にお金を出してくれ、撮影までこぎつけました。

 

<資金出すんですか?出さないんですか?>

 『チルソク』は9干万円で作っています。ちなみに『半落ち』は3億3千万、『北の零年』は15億円を超えています。9千万で50人からのスタッフで地方へ行って宿泊をして、おまけに釜山まで海外ロケまでやるというのは至難の業なんです。けど、僕がこの映画助監督の時からやりたい、やりたいって言っていたのでご祝儀みたいにスタッフの人たちが集まってくれました。スタッフの皆も格安のギャラで集まってくれました。
 それまでにも紆余曲折あり、資金を得るためにアメリカでロバート・レッドフォードが主催するNHKのサンダンス脚本コンクールに出したんです。110本の中から6本に残り、そのうち3本がアメリカに渡る時に落されたんですが、その時面接を僕が受けるわけなんですけど、「なんでこんな脚本お前書いてんだ」「こんな脚本書いているから40歳過ぎてもまだ助監督やってるんだ」とか某監督にボロカスに言われたりしたんです。それもこの映画を実現して世に出そうというエネルギーになりました。
東京から下関に向かうまでお金もなかったので、助監督、プロデューサーを乗せて僕の車を僕が運転して高速を11時間ぐらい走りました。「やっと京都か」なんて思ってたのを覚えてますねェ。後ろからプロデューサーの携帯で話す声が「資金出すんですか、出さないんですか」とか聞こえてきて、下関に着いた頃中止になって帰ろうて言われるんじやないかとかって言ってたりしていました。

<4人の女優と合宿!>

 4人の女の子は皆オーディションで選びました。多少の経験はあるにせよ皆ほとんど素人でした。オーディション当日はグランドに短パンとランニングで来いって言って、セリフは要らないから「走ってみろ」「飛んでみろ」「投げてみろ」で選びました。ヘタにTVドラマでかじったようなお芝居なら何もできない方がいい。フレームの中になるべく4人を入れたい、4人が皆同じように走れる子じゃなければならないと思っていました。
 クランクインの前には彼女たちと2週間下関で合宿しました。昼間は地元の高校の陸上部の人たちと練習してもらいました。僕もランニングと短パンで同じように日に焼けました。陰で上野がCMあるんで日焼け止めぬってたりしたんで「日焼けが嫌なら帰ってくれ」なんて怒鳴ってたんです。午後からはお芝居とはどういうものか、とか方言の練習をしました。夜は4人で一緒に銭湯行ったりなんかしてたみたいですね、僕も一緒に行きたかったんですが(笑) 

 彼女たち4人には2週間合宿して走ったり演技についての勉強をしたり、「カルメン77」の振り付けを研究して覚えてもらったりしながらこの映画を作っていきました。忙しいプロの俳優さんがさっと来て「さぁやりましょう」というのとでは、僕にとっての思いも違ったものになっていました。出資して下さる人たちの中には、主人公だけはに何とかあややちゃん」とか売れてるタレントさんを使ってくれという意見がありました。167mの水谷妃里が165mのバーを飛ぶ努力をしたんですが、そのバーが飛べるくらいの有名女優さんならいいんだけど、そこは相当に僕なりの闘いがありました。だから全国公開ができずシネコンからは無視されました。たった10本のフィルムを焼いて全国をまわり、シネコンじゃない名画をかけるような小さな映画館が応援をしてくれました。約2年かけて上映して今もまだこうやって各地で上映がされ、ずっと観てもらえています。そのことに僕は喜びも感じているし、愛しい映画にもなっています。

<親父と安大豪への思い>

 親父が亡くなった時に、この映画の企画を思いついたんで、親父の役は僕の思いで山本譲二さんに決めていました。「みちのく、ひとり旅」の山本譲二さんですが、僕と同じ下関出身です。山本譲二さんは僕より十年くらい上の世代ですが、在日の人の理不尽な差別とかを感じている人に、このお父さん役をやってもらいたかった。山本譲二さんに頼むつもりで演歌の流しの役で脚木を書いていました。二つ返事で出てもらいました。1日のコンサートで、数百万のギャランティーを稼ぐ大スターなのに4日間下関に来てらってノーギャラです。ホントは少し用意しておいたんですが、いらないって言われました(笑)。スタッフでおいしいものを食ってくれって…ホントに感謝です。…そういう人の熱い思いがこの映画にはつながっているんです。
 僕は歌謡曲が大好きなんです。バーのシーンで「絹の靴下」の夏木マリさんが「みちのく、ひとり旅」の山本譲二さんを見送って、譲二さんの寂しい背中があって、カットが変わると「なごり雪」のイルカさんが教壇で立っている。僕の中では歌手3連カットって呼んでいるんです(笑)。

 隠し味として自分の中で楽しんでいることもあって、『半落ち』が1月に公開され、東京では『チルソク』が4月スタートでした。どうしたら『チルソク』の宣伝できるかって思いながら『半落ち』の鶴田真由さんのシーンで後ろに『チルソクの夏』のチラシをペタッと貼りました。東映の常務にすごく怒られました(笑)。「お前なぁ、これから大きな監督になっていくんだからこんな姑息なことしたら恥ずかしいんだぞ」って。…でもそういう遊びがあって映画は楽しくなるし、ちょっと、あったかくなるんです。
 映画のラスト、20数年後の安大豪をやってくれていたのが、下関で僕の高校の先輩です。下関で撮った映画3本をずっと支えてくれていた人です。あの役に東京から役者さん使って来てもらうと、ギャラも もったいないし、あそこは顔を見せないのが狙いなんで、彼に出てもらいました。が去年『カーテンコール』をクランクインするのを待ったようにガンで亡くなったんです。49歳でした。『半落ち』を観てくれた時に、「俺も梶聡一郎と同じ49歳で、命って考えたよ」って言ってくれた1ケ月後にガンが発見されて、手遅れでした。去年の夏『カーテンコール』を撮りながら彼のお通夜と告別式に行ったことを思い出します。このところ『チルソク』の、彼の姿と声が流れるラストが辛くて観られないんです。
 日本の映画館ってシネコン、特にハリウッド製の大作や物量戦のイベント映画みたいなのが中心になっていて、どうしてもこの『チルソク』のような映画はそこからはみ出してしまう。こんな映画をなくしちゃいけないと思って、僕は撮り続けようと思います。マスコミの大氾濫のテレビのスポットばかりに惑わされず、日本映画のちょっといい映画にアンテナを立てて応援してくれたら、ありがたいなと思います。   (報告是)

 


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