『シリアの花嫁』シネマ&トーク・岡真理さん(10.1.14)

『シリアの花嫁』の見方−その背景と関連する映画をめぐって

イスラエルの占領地域 

 ガザ、ヨルダン川西岸、ゴラン高原、シナイ半島は67年の第三次中東戦争でイスラエルによって軍事的に占領されました。戦争直後、国家安全保障理事会は安保決議242号を採択し、イスラエルが占領した地域から49年の停戦ラインまで即時撤退するよう求めていますが、エジプトに返還されたシナイ半島を除き、依然履行されていません。
 更にイスラエル81年にゴラン高原併合法を制定し、一方的にゴラン高原は自国の領土だと宣言しています。
 しかし、国際法上、ゴラン高原は明らかにイスラエルが軍事的に占領した地域です。国連決議もそこからの撤退を求め、併合法自体が違法だとしています。2007年国連総会においても、ゴラン高原からの撤退と、あらゆる占領地における占領の終結を求めています。

イスラエル占領下ゴラン高原の無国籍シリア人

 ゴラン高原は行政的にはイスラエルの一部となっているため、ユダヤ人の入植者の大勢います。もともとの住民はアラブ系シリア人で、そのうちドルーズ教徒が大半を占めています。
 イスラエルの人口は700万人ですが、その26%の140万人は、難民とならずに留まったパレスチナ人です。彼らはイスラエル建国の直後からイスラエルの市民権を与えられています。
パスポート的にはイスラエル人です。もちろん、イスラエル人だからといって彼らに対する差別がないわけではありません。ユダヤ人国家における非ユダヤ人ということで、法的にも社会的にも制度的にも様々な差別にあっています。
 イスラエルは占領したゴラン高原の住民に対しても同じようにイスラエルの市民権を与えようとしました。シリア人に市民権を付与することで、彼らをシリアから完全に分断してしまおうとしました。が、彼らはそれに抵抗して、住民の多くは依然シリアの市民権を保持し続けています。
 冒頭でプレイボーイの次男が帰って来る時、空港でパスポートがないため、国連が発給する通行許可証レセ・パセを見せます。イスラエルの市民権を持っていればイスラエルのパスポートで渡航できるが、それを拒否していることを表しています。つまり彼らは無国籍者ということです。

 では、このドルーズ教徒とは何なのでしょう。イスラムにはシーア派とスンニー派の大きな宗派があります。シーア派の分派のひとつイスマエル派が誕生し、11世紀エジプトにファーティマ王朝を作ります。この第6代カリフ、ハキームが神格化され、その宗教がドルーズです。後に、この宗派たちはエジプトで弾圧されてシリアの山岳地帯に移住します。彼らはコーランとは別の聖典を持っていて、しかも輪廻転生を信じています。一般のイスラムからは別の宗教とみなされています。

政治的・宗教的少数派のドルーズ教徒

 この映画の主人公、ゴラン高原のドルーズは、二重の意味でマイノリティです。イスラエルの占領下の住民で無国籍者であることの政治的なマイノリティ。また、圧倒的なイスラム世界の中で、宗数的にも極めてマイノリティ。

 自分たちのドルーズであるというアイデンティティを守り維持するために同じドルーズの者同士としか結婚しない。このことがこの物語の背景を形成しています。それはどんな社会でも、いろんな意味での少数派の人たちに共通に見られることだと思います。


 ヒロインのモナは、どうして最初の結婚がうまくいかなかったのか。何故国境を越えて、交際していたわけでもないのに、親族だからというので結婚してしまうのか、果たしてこの結婚はうまくいくのかな、と思いますよね。具体的には語られていませんが、このことはドルーズであることと深く関係しています。
 ゴラン高原のドルーズは赤ちゃんからおじいちゃんまで含めて1万9300人です。ヨルダンのドルーズは2万人ですけど、シリア人、レバノン人、誰とでも結婚できる選択肢はあります。ゴラン高原のドルーズの彼女たちとつりあう男性はほとんどいない。お姉さんの結婚が示唆的ですが、あの意志の強そうなお姉さんと夫、どうみてもつりあわないですね。結婚せざるを得ない。おそらく妹のモナも最初の結婚もそうだったのだろうと思われます。ここで描かれているのは家父役割であり、家族の絆です。
 長男はロシア人と結婚し、その結果、父親から絶縁されています。アマルもモナも父親に従って結婚し、不幸な結婚生活を送ることになってしまった。女性たちが、単に家父長制に縛られている受動的な犠牲者なのか。
 それだけしか見ていないと、この映画が描こうとしているものを理解し損ねてしまいます。

自分の幸せよりも家族の絆

 そこには家族の絆があります。絶縁されているけど、長男は家族として受け入れられたい気持ちを抱いている。アマルもモナも父親の家長の権威に従属して、自分を犠牲にして従わざるを得ない、ということでなく、自分の幸せよりも家族を優先する。
 占頷下の民族的宗教的なマイノリティで生きている者たちにとっては、何よりも家族や親族が、互いに支見合って生きることが必要であり、とても大切なのです。
 この家族の絆があるからこそ、60年以上前に故郷を暴力的に追放され、難民となって、差別されながら、迫害されながら、幾度も虐殺を被りながら、今日まで頑張って生きてくることができた力のもとは家族、親族、共同体の絆があるからなんだと痛感します。

イスラエルに抵抗するゴラン高原のドルーズ

 舞台となるマジュダルシャムス村は、ゴラン高原北部のドルーズの村の中で最大のものです。人口は8800人。大半はイスラエルの市民権を拒否してシリアの市民権を保持しています。イスラエルにあっては無国籍状態です。
 イスラエルにもパレスチナ系のドルーズは10万います。彼らはイスラエルの国籍を持っています。イスラエルは国民皆兵制なのですが、イスラム教徒の、パレスチナ系のイスラエル人は兵役の権利は排除されています。
 一方、ドルーズの人たちは徴兵されます。イスラエルのパレスチナ人の中にあっては、ドルーズの人たちはイスラエルに協力している側にあるとみなされます。
 占領地における検問所で、非占領下のパレスチナ人とのやりとりで、ユダヤ系の兵士はアラビア語を話せませんから、ドルーズの人たちがこれにあたります。パレスチナ系でありながら、ドルーズの人たちは積極的にイスラエルの市民となっていくことで、占領下のパレスチナ人の抑圧に加担してしまう側面もあります。
 同じイスラエル領という意味で、ゴラン高原のドルーズの人たちはこれと全然違う立場にあります。イスラエルが一方的にゴラン高原を併合した反対闘争において、マジュダルシャムス村は指導的役割を果たしました。あの花嫁の父はその反併合闘争の指導者なのです。

何故シリア側へ行けないか

 この映画の最も重要なポイント。花嫁は何故シリア側に嫁いだら二度と戻ってこれないのか。ウェディングドレスを着ているのに、何故シリア側に入ることが出来ずに鉄柵の前でずっと待っていなければならないのか。
 ゴラン高原の住民がシリア側に全く行けないわけではないのです。シリアとイスラエル双方の政府が合意した特別な機会が認められています。シリア側への巡礼や、モナの弟がシリア側の大学にいたように、一時的なものは認められています。でも結婚は違います。シリア人としてシリアに往むということです。
 シリア政府はイスラエルを違法な占領者と認識しています。イスラエルの立ち入りというのは、占領の既成事実化を追認してしまう、イスラエルの存在を承認することになるので認めていません。シリア、レバノンの人たちは占領地も含めてイスラエルに入ることができないのです。

イスラエルの入国スタンプ

 国境を管理しているのはイスラエルですから、入るためにはイスラエルが入国印を押します。イスラエルに入ることは、そこがイスラエルであることを認めることになります。これはレバノン人やシリア入に限らず、私たちも海外渡航する時にも、イスラエルの入国スタンプかあるパスポートだったら、レバノンやシリアには入国できないのです。
 私は2002年、第2次インティファーダのさ中、サブラ・シャティーラの虐殺から20周年、キャンプの遺族の人たちのお話しを聞くためにレバノンヘ行きました。イスラエルに入る時に、空港で「ノースタンプ]と言えば入国スタンプは押されないのですが、時期が時期で空港で入国拒否をされたくなかったので「ノースタンプ」と言わずに入りました。「ノースタンプ」と言っても時々嫌がらせでスタンプを押されることもあります。イスラエルの入国スタンプのあるパスポートではレバノンヘ行けません。そこで「敵国に渡航するため」という条件で申請すると、パスポートを預けて、一時旅券を発給してもらうことができ、レバノンに行ってきました。
 レバノンの入国スタンプがあってもイスラエルには入ることはできます。でも、レバノンとかシリアとか入団スタンプがいっぱいあったら、別室に呼ばれてなんで行ったんだとか、いろいろチェックされるかもしれませんが…。
 ヨルダンやエジブトから陸路でイスラエルヘ入ると、入国スタンプは押されなくても、ヨルダン、エジプトの出国スタンプが押されます。ヨルダンで出国スタンプが押されていると、それはイスラエル占領下のパレスチナに入ることしか意味しません。これもダメです。映画のモナたちだけでなく、私たちにもレバノンやイスラエルに関わろうとする時にも生じる問題なのです。

『カップファイナル』

 『シリアの花嫁』を理解する上で関連作品をいくつかご紹介します。まず、同じエラン・リクリス監督の『カップファイナル』です。
 イスラエル軍によるレバノン侵攻があった1982年。この年、スペインでサッカーのワールド・カップが聞かれています。主人公イスラエルのユダヤ人兵士コーヘンはレバノン進軍中にパレスチナ・ケリラに検挙され捕虜となります。このゲリラたちは、占領されたベイルートに潜入しようとします。ゲリラと捕虜コーヘンとのべイルートまでを共にする旅を描く、一種のロード・ムービィです。
 実はコーヘンはこの戦争が終わって除隊したら、ワールド・カップに行こうとチケットを大事に特っています。このチケットが粋な使われ方をしています。ある朝、コーヘンの姿が見えなくなります。ゲリラたちは、彼が逃亡したかといきり立って探すと、コーヘンはお腹をこわして藪の中でトイレの最中でした。ところがコーヘンは祇を持っていない。パレスチナ、ムスリムの人たちは水でお尻の始末をします。紙がないことの切実さを彼らは理解しない。仕方なくコーヘンは大切に持っていた、終わってしまった試合のチケットでお尻の始末をします。
 やがてゲリラの兵士ジアードとコーヘンとの開に友情が育っていきます。ジアードもサッカーの大ファンで、二人ともイタリアを応援しています。明日、レバノンに潜入しようという晩、コーヘンは決勝戦のチケットをジアードに譲ります。「もう間に合わない」とジアードは言い出すが、コーヘンは「まだ後半戦には間に合う」と言います。決勝戦にはもう間に合わないかもしれないチケット、でもコーヘンにとっては命の次に大事なチケットをジアードに渡すことは友情の証しです。パレスチナとイスラエルが紛争をしてこれだけこじれてしまっているのに、それでも「まだ後半戦に間に合う」という言葉、そこにリクリス監督が込めたものがあると思います。

『シリアの花嫁』の実話『ボーダーズ』

 同じリクリス監督の『ボーダーズ』、国境、境界線をテーマに、無数の境界線に引き裂かれている中東の現実を描いたドキュメンタリー映画を紹介します。
 どんなボーダーがあったのかほとんど思い出せないのですが、それでもよく億えているのが映画の最後に出てくるゴラン高原のシリアとの国境の狭間でウェディンドレスを着て座っている花嫁の姿ですこれは実在の話です。
 『ボーダーズ』を作っている過程で、リクリス監督がそれを題材に劇映画にしたのがこの『シリアの花嫁』なのです。

パレスチナ人監督ミシェル・クレイフィ『ガリレアの婚礼』占領の抑圧と、家父長制の抑圧を乗り越えていく女性たちの姿

 イスラエル支配に抵抗する村の結婚式『シリアの花嫁』の物語はミシェル・クレイフィ監督の『ガリレアの婚礼』という作品を下敷きにしています。ミシェル・クレイフィという人はイスラエルとなってしまったパレスチナ、ガリレア地方の出身のパレスチナ人映画監督で、パレスチナ映画の父とも言われています。
 1948年イスラエルに占領された地域、ガリレア地方のある村が舞台です。そこはイスラエル支配に抵抗の拠点になっています。主人公は村長で、息子の結婚式を、パレスチナの伝統にのっとって盛大に行いたいと思っています。
 そのことが占領者に対して民族的な抵抗の証になると考えています。ところが、この村は抵抗の拠点であるために集会が禁止されています。結婚式を行うために、イスラエル司令部に赴いて許可をもらわなければならない。軍の司令部は結婚式を許可する代わりに、自分たちを主賓として招待させることを条件としました。占領者を客人としてもてなすことを強要することでパレスチナ人を辱めたいというもくろみがあります。ここでモナのお父さんを演じた俳優が厭味なイスラエル軍司令官を演じています。
 村の男性だらけイスラエル軍の者からを招待することに反対します。式をボイコットするぞ、と言い出します。『シリアの花嫁』の中でも、ロシア人と結婚した長男が来るのだったら式をボイコットすると言った村の長老だちと似ています。青年たちはその機を利用して司令官の暗殺を計画します。花婿のコケティッシュな妹は、村長である父親の目を盗んではボーイフレンドと親しげにし、更には若いイスラエル兵までも誘惑したりします。二重三重の不穏な空気が漂います。

 
占領者と非占領者の関係

 しかし、イスラエル軍司令官が予想しなかったことかあります。式には式のルールかあるということ。ホストは客人をもてなさなければならないが、同時に客人もまた礼節をもってふるまわなければならないということです。
普段なら占領者と非占領者という圧倒的な力関孫のもとで、傍若無人にふるまうイスラエル兵、それができなくなる。
 その中で事件が起きます。花婿の幼い弟が逃げ出した馬を追って、地雷原に迷い込んでしまいます。村長は息子を助けてくれるよう司令官に頭を下げて頼みます。その結果、イスラエル軍とパレスチナ人が協力して地雷原から少年と馬を救出します。本当に大切なものを守るためだったら、つまらないプライドを捨てて譲歩とか妥協をするのではないか、というひとつの寓話として描かれている。
 イスラエルの女性兵士が緊張下で意識を失います。パレスチナの女たちに看病され、意識を取り戻すと、彼女は軍服を脱いでパレスチナの民族衣装に身を包んで女たちと踊るという非常にホモエロテイックな場面があります。
 女性も武装している軍事的イスラエルに対するアンチテーゼとして、それを一旦脱がせてエロス的な関係の中で女たちの交流を描いています。

民族的な抵抗の証

  伝統的なアラブの結婚式のクライマックスは、床入りした花嫁の処女の証、血痕がついたシーツをお客さんに見せて祝福されるというものです。緊張のあまり花婿は初夜の務めを果たせなくなります。
 伝統的な式を貫徹することがイスラエルの占領に対する民族的な抵抗の証となることが花婿の負担にのしかかり、一時的な性的不能に陥ります。遅いと心配したお母さんが寝室に入ると二人は床を共にした気配すらない。処女の証が出ないごとには一族の名誉にかかわると花嫁の両親は狼狽します。
 花嫁は「処女性が女の名誉なら男の名誉は何なの?」と言って打ちひしがれた夫を尻目に、彼女自ら指で処女膜を破りシーツに血痕をつけます。こんな血のついたシーツが民族の名誉だったらこれくらいのことと、彼女は家父長的、民族的な名誉なるものの概念を軽々と乗り越えてしまいます。その花嫁の姿を通じて解放のあり方を描いています。

ユダヤ人の写真家が、リクリス監督の立ち位置

 『シリアの花嫁』は『ボーダーズ』が契機になって『ガリレアの婚礼』を下敷きとしています。結婚式の1日を描き、登場人物の造形も似ています。占領の抑圧と家父長制の抑圧、二重の抑圧に抵抗する女性たちの姿が核にあります。国家が勝手にひいた国境線、そこに翻弄される者たちを尻目に、自分の意志で突っ切っていく『シリアの花嫁』。それは『ガリレア婚礼』のエラン・リクリスバージョンと言えます。
 それが成功しているかどうかと言えば、『シリアの花嫁』には辛い点数をつけざるをえない『ガリレアの婚礼』の密度や強度に比べると、『シリアの花嫁』は描ききれていないのが惜しいと思います。
 その違いはどこからくるかというと、クレイフィ自身はパレスチナ人で、ガリレアでパレスチナ人が生きている現実はクレイフィ自身の現実なのです。クレイフィはヘブライ語もアラビア語もわかります。一方、リクリス監督は一貫してイスラエルの占領を問題視している極めて良心的な監督なのですが、おそらくアラビア語は話せない。ゴラン高原占頷下のドルーズを彼自身が生きているわけではない。
 映画の中に登場するイスラエル人の写真家がいますが、リクリス監督はあの立場なのです。ゴラン高原の住民は写真家とはヘブライ語でやりとりしますが、自分たちの会話はアラビア語です。そのアラビア語の会話からは、あの写真家は阻害されています。何故あえてユダヤ人の写真家がいるかというと、この作品に書き込まれたリクリス監督の立ち位置を表していると思います。

ビデオ映像を見るのは誰?

 皆さんお気づきになりましたでしょうか。イスラエル入の写真家がビデオ撮影している。その再生した映像が随所に挿入されています。つまり再生された映像を未来の時点で、誰かが見ているということです。
 それは一体誰が、どこで、どんな思いで見ているんでしょう。この映像が見られている未来の時点のゴラン高原はどうなっているんでしょう。アマルがもう二度と会えない妹を思いながらゴラン高原で見ているのか、あるいはシジアでモナが見ているのか、あの写真技師がイスラエル人と共に見ているのかもしれない。この映画は未来に開かれて終わっている作品ですが、そこに私たちは一体どんな未来を想像するのか、ということも込められていると思います。
 モナとアマルの姉妹の名前について、アラビア語で「アマル」はHOPE、希望、「モナ」はWISH、願い、最後は希望と願いで終わります。

 



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