ホーホケキョとなりの山田くん/高畑勲監督シネマ&トーク

 2002年10月、再び京都にお呼びして、たっぷりとアニメと現実の話を伺いました。高畑監督の魅力は、日本のアニメの黎明期の先頭を走ってきた経験を誠実にしかも理論的に現代アニメ(映画)を語っていただけるところです。

 

 

 

 

 

 

 日本のアニメは主人公に感情移入をしてしまう「思い入れ型」。観客が何かを「考える」という余地がない。

 長年アニメの世界でやってきて、自分もその役割を果たしてきたのだけど、ファンタジーであれ、日常的生活アニメであれ、現実感のある映像を指向するようにやってきた。が、今そのような表現のものばかりでいいのだろうか、アニメにはもっと違うものがあっていいんじゃないかと思うようになってきた。どんなに克明に現実感をもったアニメを描いても、距離を感じて見えてしまうでは観客に迫ってこない。迫らせるには、その世界の中に人を連れ込んでしまう工夫がいる。その工夫とは、登場人物の知覚化で物を見据えることで行ってきた。この2,30年のアニメの傾向は、主人公は子どもで、つらい運命が待っているような同情し易いような、あるいは強くて頭もいいような英雄もの設定だったりする。自分が主人公の側に寄り添っているように思わせることで作品の世界に入っていきやすい。
 世界のアニメでは、背景が必ずしもリアルな必要はないが、日本の作品は、やたらリアル。何故かというと主人公の空間に入り込んだような気持ちにならなくてはいけないから。入り込みやすいためにはリアルな背景が必要になってくる。また一方で、主人公について人間的な充実度は要求されない。人間としての面白さはなくても構わない。主人公と一緒にいれば主人公は見えないし、主人公と共に世界と対時している。観客の我々も現実にそんなに面白い人じゃない。例えば鶴瓶って人は面白いって言っても、自分が鶴瓶と同化するわけじゃなく対象として面白い。
 

 また、お話の構造を客観的に見て充分描かなくてもいい。つまり世界像が明らかにならなくても、どうなっているかわからない世界を主人公と同じに見ていけばいいのだから、その方がドキドキする。主人公と共にある特別な体験ができる仕掛けにする。そういうものをアニメは目指してきたんじゃないだろうか。その頂点にある代表的な作品が『千と千尋の神隠し』。平凡な女の子が異界に迷い込んで、わけのわからないことが次々と起こり対処していかなくてはならないが観客も一緒についていく。そのわからない世界の中で千尋と共に観客が不思議な疑似体験をすることで成り立っている。続くジブリの『猫の恩返し』も全く同様な傾向が続く。

もっと違うものがあるはず。日本のアニメ

 現実が面白くないから、めくるめく世界や激しい戦闘場面を体験してみたい、欲求不満の解消。それから、最近流行りの「癒されたい」というもの。癒しという言葉を僕は嫌いであって、癒しというのは病気が前提で、皆病気の自覚があるというのは、どうもいやで、癒しになるような映画は作りたくない。でも生活していく上では慰めは必要で、Healing(治す)じゃなくてConsolation(癒す)だろう。映画というものは、特別な世界に閉じ込められて普通じゃ得られないような体験をして心が癒されるということなのだろうが、そうではないものもあっていいのではと思う。
 その最たるものが『山田くん』であって、山田くんの中には日常しかない。日常たって、くだらないと思われるものばかりで、誰にでも起こるようなことにも拘わらず、忘れている。ダメなことがあっても人は、それなりにやっていけると思わないといけない。自己肯定をしないとやって行けない。最近は理想像ばかり提供されている。理想ばかりでは現実に対処しきれない。観念的ばかりになる。


 理想という箍(たが)をはずして、皆それほど立派じゃなくていい加減なもんなんだ、とそこから出発した方が前に進めるんじゃないかと思つた。映画で「諦めが肝心」と言うと最低と言われたりするんだけど、物事がよく見えるためにも「あるがまま」に受け入れることが必要なんですよと言いたかった。今のアニメの傾向は感情移入型の「思い入れ型」と私は勝手に呼ぶ。主人公に思い入れをするのに、やや眼が曇っていても平気になっている。思い入れてなければ、主人公や世界に対して違う発見もできるんだろうが、主人公がどういうものに遭遇して自分も一緒にドキドキしていくかが大事とされる。曇らない眼で見てるんじゃなくて曇りたいらしい。世界を見て、その中で登場人物に対して自分があの立場ならどうふるまうだろうか、どう違う行動を起こすだろうか、といった「考える」余地を全く与えられていない。

『思い入れ型』ではない『思いやり聖『トイ・ストーリー』の新しい傾向

 「思い入れ型」に対して最近別のものが出てきたなと思ったのは、アメリカのアニメでジョン・ラセターの『トイ・ストーリー』や『モンスターズ・インク』。ジョン・ラスターは宮崎駿をはじめ目本のアニメをよく学んでいる。感情移入の没入型の映画に対し、これらの作品は主人公の設定の仕方が全然違う。『トイ・ストーリー』を観ても、トイ(おもちゃ)には絶対なれない。感情移入はできるが、見る側から見れば、客観的な存在である。おもちゃというものは広い意味でのペットである。そのペットがご主人様に対し、またペット仲間同士で、どんなに気遺いあったり、悩んだりしていることを感じさせてくれる。その見る側から他人としかみることの出来ないおもちゃたちの気持ちに「思い入れ」ているのではなく、思いやっているという「思いやり型」なのである。また、ウッディなんてのは生意気で自己主張が強い。感情移入型になれきっているから、自分がのって行けない人物だと、理解しようという余裕を失っていることもある。僕は来年の夏に『キリクと魔女』というフランスのアニメーションの公開に努力をしているが、これなども全く日本のアニメと傾向が違う。世界をきっちり描き、世界を見つめ、物事をちゃんと考えることに迫らされる、といったもの。世界ではこんな違った傾向があるのに、日本では思い入れでどっぷりつかった映画ばかりでいいんだろうか。

癒されるようには作っていない『平成狸合戦ぽんぽこ』の客観的視点

 僕自身に関して言うと、この前に作った『平成狸合戦ぽんぽこ』などにしても、どこか客観的な視点を残すように作ってきている。狸たちが化けて繰り出す妖怪大作戦の場面で、「思い入れ型」の映画だったら、狸たちが一縦横無尽に活躍して、その中に観客が巻き込まれて、どうなるのだろうかとは思わせないと面白くないわけだけど、そうは作っていない。狸がこれだけ色んなことを繰り広げているにも拘わらず、それが全く受け入れてもらえないシチュェーションを客観的に見てもらわなければいけない。狸が化けるという一点を除いて、この30年間、多摩丘陵、あるいは人間世界で起こってきた「開発と自然破壊」のドキュメンタリーのつもりで描いた。狸だったらどう言うであろうか。それを受け取る僕たちが、狸の痛みとか、狸とのつきあい方とかを、どう考えるべきか。「現実を見てみよう」というつもりで作ったのだから、絶対、癒されるように作っていない。これを見てがっくりしたと言われたことがあるが、いかに皆巻き込まれたがってる、癒されたがっているのかを感じる。


 『猫の恩返し』で、女の子が目常生活の中、道路で車に轢かれそうな猫を助けて猫の世界に入る。猫のファンタジーの世界に入るのは構わないと思うが、納得いかないのはその助け方。女の子が絶対助からない状態で猫を助ける。それは冒険活劇と同じファンタジーの世界だからできることなのだけど、その猫を助けるきっかけで、ファンタジー世界の前段、日常生活のところで、既にファンタジーになってしまっている。今のアニメが何でもできることになってて、それを批判するというより、それ位いい加減になっている。そういうことはちゃんと観ていなきゃいけないんじゃないか。今の子どもはデジモンゲームやってて、突然怪獣が出てきたら戦いだす。何のために戦っているのかわからないで、怪獣が出てきたら戦うもんだということに平気になっている。

 
 それは世界を理解しなくても主人公に没入していればファンタジーの世界にひたれる、癒される気分になるという傾向とどこかでつながっているようだ。この傾向に観客の方々が声をあげない限り、それは拡大再生産されていくんじゃないだろうか。映画とは、世界そのものを見つめるために、できたものであって、アニメにおいてもそういうものがあってもいいのじゃないか、と僕は思う。


 


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